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2012年 04月 17日
色々と未消化のまま最終回を迎えてしまったので、「メインラインだけはどうにかするかもしれないが、それ以外の部分はどうしようもないだろう」と思っていたのだが、蓋を開けてみるとメインラインは微妙で、周辺部分の方がむしろ上手くやっていた。無論これまでがこれまでだったので、上手くやっていたと言ってもブラス方向まで持って行っている訳ではない。ダメージコントロールと言うべきか、これ以上マイナスにしなかった、傷口をこれ以上広げなかったと言う点での「上手く」だ。例えばダリルとか研二とかは、「もうどにもならんだろう、こいつら」と思っていたのだが、ちょっとした工夫で納得できる所に着陸させていた。
迷走の結果、始末に困る状態になってしまったキャラがかなりいるが、ダリルはその中でも格別だ。ヴィジュアル的に映えていて、準主役である涯とかぶる所(金髪)と対照的な所(白服)があるので、「涯が敵になったら入れ替わるように味方になるのか」「ヴォイドゲノムが三つあるし、三つ巴状態になって、こいつが第三極のメインになるのか」「実は集の記憶に出てくる少年は涯と見せ掛けてこいつなんじゃないか」と期待や警戒をしていたのだが、結果はご存知の通り。終始一貫してメインストーリーに特に影響を与えること無く「イッちゃってる敵のエースパイロット」の枠から出ないまま終わってしまった。まさに「どうしてこうなった」だ。 8話とか13話とかを見るに、おそらく鋼屋ジンはこいつをどうにかしようとしていたのだろう。その姿勢は評価する。また、この「キャラは立ってるし当人のドラマはあるが他のキャラとほとんど絡まない」ダリルに、「キャラは立っているし他のキャラとの絡みもあるが、当人のドラマはない」ツグミをくっ付けちまおうと言う発想も悪くない。でも、いくらなんでもやる事が遅すぎる。また、こいつのやってきた事を考えると、あの程度の家庭の事情では免罪符にならない――目の前で両親を殺されたあの男の子は、その後どうなってしまったのやら――。 結果論だが、中途半端な事をして余計話を面倒にしてしまった。いや、振ったネタを上手く膨らませられなかった大河内一楼や、そもそも膨らまそうとさえしなかった吉野弘幸も、かなり問題なんだけどね。ただ浅い所で出来上がってしまっているので、膨らませにくいし、膨らませる気があまり起きないネタだから、割と仕方がない気もする。まあ、誰が悪かったかは難しいので置いておくが、とにかく最終的にこいつをどう遇するかが非常に難しくなってしまったのだ。「味方側の女の子とちょっと仲良くなったから」だけでのうのうと生き延びられたら「ふざけるな」になってしまう。かといって中途半端にフラグが立ってしまったので、そのまま死んでしまわれても後味が悪い。正直、この最終回を見るまでは「どっちに転んでも、釈然としないだろう」と思っていた。 だから、この最終回で実際になされた「他者に半ば無理やり生かされる」という結末にはえらく感心した。「ここで死ぬ事は許さん。生き残って改心して少しはマシな人間になれ」と、こちらの中にあったもやもやを形にして実現してくれたのは非常にありがたかった。しかもこれをローワンにやらせたというのが、また上手い。ローワンというキャラも接点のあるレギュラーが(一足先に退場した嘘界と)ダリルぐらいしかおらず、動機も不明瞭な、まさに「なんでここに居るの?」と聞きたくなるキャラだった――場違いなまでにパッとしないキャラなので逆にこいつが黒幕なんじゃないかと本気で疑った事もあった――のだが、そこを逆手に取って「ダリルがいるからいた」事にしやがりやがった。「子供の頃に会っていた」というのはもちろん後付け設定だろうが、今までキャラの掘り下げをしてこなかった事がプラスに働いて、そこにあまり不自然さを感じなかった。詳しく説明しなかったのも、下手に言葉を重ねてもボロが出たりわざとらしくなるだけだという事がわかっていたからだろう。実際、情報を絞って見ている方が頭の中で勝手に足りない部分を補うように仕向けた方が上策だ。 ローワンは脇役と言うより端役で、軽く見られてるいる一方で特に嫌われるような事もしてこなかったので、漠然と普通に生き延びると予想していた。でも、よくよく考えて見れば、直接手を下してはいないとは言えアンチボディの一員として殺戮行為の片棒は担いで来ている。何事も無かったようにのうのうと生き延びていい人間では実は無い。一方で、主体的・能動的にやってきた訳でもないので、普通に殺されても釈然としない。他にいないからと言う理由でこいつを「アンチボディ一般の代表」にして、組織の悪を一身に背負わされるのは筋が通らない。 そういった事を考えると、ローワンが「自分の意志で意味のある死に方をした」というのは落し所として適切だった。「組織の悪行」ではなく「ダリルの悪行」を自らの意志で肩代わりして、その結果として死ぬというのはそれなりに納得できる。ダリルを「上手く生き延びさせた」のと対になる形で「上手く殺した」。 もっとも、「上手く殺した」例としてはやはり研二の方を推したい。 こいつも、ここまで来るともう殺すしかないキャラなんだが、殺し方が割と難しい。主人公側から見ると好意を抱く要素がまるでないのだが、それだけに普通に殺してしまうとまるで鬱憤晴らしのようになってしまう。「気に食わない奴が死んでスカッとした」では作っている人間と見ている人間と作品の品格が疑われる。 だからと言って、死ぬ前に取って付けたように彼氏の事情を明かして――でっち上げて――「彼も可哀想な少年なんです」とするのは下策だ。「可哀想」というのは上の立場の人間が抱く感情。誰かを「可哀想」な存在に仕立て上げる時には、その相手を自分よりも下に置きたいと言う欲求が裏にある。ここで、研二を可哀想な人にするのは「こいつを屈服させたい」という客の性質の悪い欲求を美化して正当化する事だ。普通に殺すよりもなお悪い。 そういった事を考えると、「最後までぶれずに、かつての仲間に殺された」という結末は適切だった。「殺さなければならない相手だったが、殺しても勝った気にはなれない。むしろ負けたような気さえする」というのは憎まれ役としては面目躍如。いかなる方向であれ、終始一貫しているというのは美点足りえる。 実の所、見方によっては葬儀社の中で「ぶれていない」のはこいつだけだったりする。主人公の側から見ると「魔王化した涯と一緒に道を外れた正に外道」なのだが、逆から見れば「葬儀社の中でこいつだけが最後まで涯に従った」となる。葬儀社という組織の目的が明瞭に示される事が最後まで無かった事を考えると、「葬儀社とは恙神涯に従う者たち」と言っても穿ち過ぎではない。むしろしっくり来る。そしてその線で見ると、研二は葬儀社のメンバーとして筋を通しており、こいつ以外の全員の方がむしろ変節した事になる。 実際、研二を殺したのが四分儀だったのは意味深だ。他の面子――アルゴや綾瀬やツグミ――は、「集に付いた結果として涯と敵対した」と言う余地があるが、こいつは明確に先に涯と袂を分かっている。一見非道な涯の行為の裏に実は深い考えがあった事も含めると、四分儀の選択が正しかったのか微妙になってくる。研二がどういう考えでいたかはわからないが、最後まで徹底して涯の側にいた様は、四分儀たち葬儀社のメンバーの正当性に対して疑問を投げかける。 ちなみに同様の事は亞里沙と綾瀬の間にも言える。亞里沙に関しては「こいつはもう駄目だ」と思っていたが、周りから「馬鹿だ馬鹿だ」と言われる行為をそれでも愚直に貫き通す様を見て、印象がまた良くなった。いくら頑張っても涯の愛が得られない事はもう分かっているのだろう。一方で涯が何を成そうとしているかは想像もつかないのだろう。でも、もうそういう事はどうでも良いのだろう。ここまで来たらもう自分の愛を貫くだけ。泥まみれになりながらも自分で決めた事から逃げない様にはちょっと感動した。 ただ、泥まみれな亞里沙に感動すると、必然的に「綺麗なまま」な綾瀬が微妙に見えてくる。綾瀬の「綺麗」は綺麗過ぎて逆になんか胡散臭い。当人の性格とかは嫌いじゃないんだが、泥を被るような事がほとんど無かったので逆に「それ以上」になる事は無かった。本当の意味で当事者になるような事が無かったので、物語を魅力的にする事も、物語によって魅力的になる事も無かった。徹底的に「汚れ」に近づけないようにされた所為で、「実はいなくても話が成り立つキャラ」になってしまったのは残念な事だ。 敵方のキャラのフォローが成されたのは結構な事なのだが、その結果として味方側の評価が下がってしまったので、ちょっと複雑だ。まあ、味方連中に関しては直前の二話とかでかなりフォローされていたからな。勝って普通に生き延びるし、そこまで気を遣う事も無い。皺寄せが来るぐらいは許容範囲だろう。 もっとも、果たして評価が下がったのは「結果」だろうか。実はそれ自体が「目的」なようにも思える。なにしろ、肝心の主人公からして、意図的に「間違った人」として描かれている気配が濃厚だからな。 そういう訳で、いよいよメインラインである主人公のドラマについてだ。もっともこれがなかなか難しい。一見綺麗にまとまった感動的な最終回だが、冷めた目で見ると「それでいいのか」と言いたくなってくる。 これ、少なくともハッピーエンドではないよね。良く知らんが、いわゆるセカイ系な小説の中には「ヒロインは死んじゃったけど、気持ちは通じ合えたし、主人公は人間的に成長したからハッピーエンド」と作者が堂々と主張する作品もあるらしいから、ちょっと心配になる――「キミとボク」しかないと揶揄されるセカイ系だが、作品によっては「キミ」さえも「ボク」の為の道具でしかないようだ――。 まあ、前回ツグミに「ちゃんといのりん助けなよ。そんでみんなで、ハッピーエンドだかんね」と言わせていたから、多分そういうつもりはないのだろう――「助ける」や「みんな」の定義によって意味がかなり変わるので確実ではないが――。バッドエンドではないけど、だからと言ってハッピーエンドという訳でもないのだろう。 もっとも、バッドエンドでもハッピーエンドでもないのなら、「最近流行りのビターエンド」という事になってしまう。それはそれでげんなりするな。「何もあなた(吉野弘幸)まで、そんな事せんでも」と思わずには居られない。そういう事をむしろ避ける事で、他と一線を画して来たのに。 『舞-HiME』や『マクロスF』のラストは「ぬるいぬるい」言われているが、それはあくまでも見る方にとってであって、作り手にとってはむしろ厳しい。ビターエンドの方が余程作り手にとってはぬるい。なにしろ「馬鹿には面白くない話です」的に持って行けば、「頭のいい人たち」が勝手に理屈を付けて褒めてくれるからな――某魔法少女アニメに対する世間の評価を見ると、「世間様ってちょろい」と思わずには居られない――。 とは言え、『舞-HiME』とかをああいうエンディングに出来たのは、ラスト直前に「完璧なビターエンド一歩手前」の状態に持って行っていたからだ。そこまでやっていたから、力押しのハッピーエンドも「あえてこうしたんだな」と好意的に評価出来るのだ。この『ギルティクラウン』とはそもそも状況が違う。ここまで迷走を繰り返してしまったこのアニメの場合、同じような事をしたら「ハッピーエンドにして誤魔化した」事になってしまうだろう。そう考えると、ビターエンドにしたのはまずまず適切だ――『C』のラストとかもこんなだったし、あるいはノイタミナフォーマットとして最初から決まっていたのかもしれない――。 さて、では「ビターエンドである事は外せない前提として見れば、この最終回の出来に問題は無い」と言えるだろうか。残念ながらそうもいかない。主人公のドラマとしては致命的な問題点がある。「主人公である集が最後まで真名に対して冷淡だった」、この一点の為にどうしても肯定する事が出来ないのだ。 集にとっていのり(に対する自分の気持ち)が一番であるのはいい。真名はその一番にとって敵もしくは障害なので、その存在を否定しなければならない事もあろう。また、実の姉に恋愛感情を持たれて迷惑だと思うのも正常だ。でも、だからと言って過度に邪険に扱う必要はあるまい。支障の無い範囲で優しくする事も出来たであろう。 昔バケモノ呼ばわりした事を謝るぐらいはすると思っていたんだけどねえ。結局、最後の最後まで謝らなかった。それどころか改めてバケモノ呼ばわりしやがった――「いのりはバケモノなんかじゃない。(中略)姿と声は同じだけど、君とは違う。彼女は人間だ」というのはそういう事だろう――。 性質の悪い事に「こんな奴、もう姉でもなんでもない」でさえないんだ。「いのりの事を悪く言われて反発した」という流れは前回ユウを相手にした時と同様だが、あの時でさえ「彼女の事を良く知らないんだから仕方がない」という寛容さがあった。それと比較してみると、今回の真名に対する剥き身の怒りの背後に、身内に対する甘えが存在する事が感じられる。身内だからと甘えているのに、相手の甘えは一切許さない。幼年期に一方的に甘えられる存在である母親を生まれた時に無くし、姉である真名がその代わりを務める立場にあったという事を考慮しても、その身勝手さは非難の対象になる。「人を傷付けた人は、同じぐらい自分も傷付けられる事を覚悟しなくちゃいけないのよ」というセリフは無論真名自身に真っ先に返す言葉だが、集にもやはり適用される。そもそも真名は、姉である事を差っ引いても親友(涯)の想い人だ。人の好きな女を傷付けておいて、自分は好きな女と結ばれようなどとは虫が良すぎる。いのりを失って嘆いている様にあまり同情できず、自業自得と半ば冷ややかに見てしまったが、これはむしろ自然な反応だろう。 厄介なのはこの悪印象が作り手の不手際で生じた結果的な物だとは考えにくい事だ。普通だったら「脚本家がボケで視聴者がどう受け取るかを計算できなかったから」で終わる所だが、この最終回の場合、他の部分の出来に隙が無さ過ぎるのでそうは行かないのだ。上で書いたように本筋から外れた所でさえ、視聴者の中の言葉にならないもやもやが上手く晴れるように、痒い所に手が届くように話を組んである。そんな脚本家が、たった一言「ごめんなさい」と言わせれば印象ががらりと変わる事に気付かないとは思えない。「この場合、中途半端な優しさはむしろ残酷」という事なのかとも考えたが、それなら「謝ろうとしたら涯に止められた」とかすればいい。やはりこの一言の欠落は、集を「間違った人」として描く為に意図的に為されたもののように思える。 そういう方向で見てみると、エピローグの意味する所も変わってくる。あのパートは「彼女を犠牲にして自分だけ無傷で帰って来た」という非難を避ける為の措置に、表面的には見える。第2話ラストで「あれはきっと、生涯で一度きりの冒険。今日からはまた、日常が始まるんだ」などと言っていたから、(既に失っている右腕以外に)ダメージが無ければ「いのりとの事は人生一度きりの冒険と片付けてしまい、今後は手近な別の女とくっついて普通に幸せになるつもりだろう、こいつ」と疑われかねない。作っている方が集に対して好意的ならば、視力を失ったのは一種の免罪符だろう。 しかし既に書いたように、集は「間違った人」として描かれている気配が濃厚。だとすれば、描かれた事の裏に逆の意味や意図があるのではないだろうか。実際、いのりの歌を聞いて幸せに浸っている様を見ると、当人的には「いのりを感じやすいので、目が見えなくなったのはむしろ好都合」で、客観的には「過去だけを見て生きる人間になってしまった」という事なんじゃないかと思えてくる――他の連中が前に進んでいたり、進もうとしていたりするので尚更――。一見「つらい事を乗り越えて大人になりました」だが、実際にはそういう所を通り過ぎて枯れてしまったようにも見える。「例え負けても生きていれば再戦の機会がある」などというが、この様子だともう戦う気はなさそうだから、負けたまま終わりそうだな。まあ、いのりの方向から見れば、ある意味完全勝利な結末なんだが。 それにしても、吉野弘幸は何を考えて、どういう気持ちでシナリオを書いていたんだろう。 これまで手掛けた作品を見るに、もともと桜満集のようなキャラは嫌いか苦手かあるいはその両方かであるのは間違い。「たまには、自分らしくない事をやれ」という事で、あえて不得手な事にチャレンジしたのかとも最初の頃は思ったが、企画立ち上げの経緯とかを聞くに、彼が関わる前からキャラクターやストーリーの概略は決まっていたようだ。それでも折り返し地点ぐらいまではそれなりに筋が通ったストーリーだったので、ちゃんとこいつが主人公としての義務を果たし、主人公としての待遇を受ける真っ当な話にするのだろうとは思っていた。 しかし、終わって見ればこの有り様。一見持ち上げているようだが、隙間から悪意と批判が垣間見える、非常に含みのある最終回になってしまった。 途中で散々迷走したから、「自分のキャラ」と感じられなくなってしまったのだろうか。この手のキャラって、しばしば作り手が個人的な劣等感、あるいは逆に期待を過度に投影してしまうので、ストーリー担当が複数いるとキメラ化しちまうんだよなあ。少なくとも主人公に関しては、リレー小説的な作り方はプラスよりもマイナスの方が多かったようだ。 そもそもこのリレー小説的な作り方自体、吉野弘幸の本意ではなさそうだしな。半ばぐらいまでは、これまた「たまには(後略)」という事で「今回はあえて自分一人で全話担当しない」んだと思っていたが、後半の迷走を見ると狙ってやったとは考え難くなる。そもそも当初からそのつもりでやっていたのなら、第6話の出来はない。もし最初から「6話までは自分一人でやって、後は交代でやる」と決めていたのなら、6話で一段落付くように5話までの話を作るだろう、この人の場合。5話まで順調だったのに、いきなり6話で作りが粗くなったのには、何か外部的な事情があったのではないだろうか。監督やプロデューサーにダメ出しされたとか、他の仕事が入って急遽全話担当できなくなったとか。5話まで書いた所で「自分一人じゃ上手く出来そうに無い」と考えて助っ人を呼んだという線も考えだが、その場合はあと2、3話使って上手く着地させてからバトンを渡すだろうから、やはり説明がつかない。やはりこういう方式で話を作っていたのは吉野弘幸が望んだ結果では無さそうだ。実際、20話の黒周と茎道の最後の会話の裏に、「やっぱり俺一人でやった方が良かった」という主張が垣間見える――あのやりとり、黒周=吉野弘幸、茎道=大河内一楼で見るとばっちし嵌まってしまうんで逆に嫌だ――。黒周は寂しい人とか可哀想な人とかいう描かれ方はしていたが、実は間違っている人とは言われてはいなかったからな。 私自身も(一人で全話書いた前作『ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』の出来が微妙だったので)始まった頃は、「たまには他の人と一緒にやるのもいいんじゃないか」と思っていたが、今は「やっぱり一人で書く/書かせるべきだったな」と思う。この手の話の場合、まず世界観――世界とはこういうものだ、その中で人はこう生きるものだという、世界・人生に対する見方――が統一されていないとまさに話にならないからな。例え浅くても、一貫して浅ければいい。しかし、日によって浅かったり深かったりするとどうしようもない。 多人数で書くのなら、まずそこら辺を均しておかなければならないのだが、これが面倒だ。既に自分のスタイルを確立してしまった人間同士なら尚の事。一人で全部書いた方が余程楽だ。どんなに話が広がっても、根っ子の所では一人の人間の人格として繋がっているから統一が取れる――無論、その一人の心の中に確固とした世界観があることが前提だが――。 まあ、吉野弘幸が一人で書いても、やっぱり微妙な事になったと思うけどね。勝ちパターンが一個しかない人だからな――大抵の脚本家はそうなんだが――。こういう主人公に関しては、もっと上手い人が他にいる。この人までがこんな事をしなくてもいい。大人しく(今の世では絶滅危惧種な)出来る若人を主人公にした、余人が真似できない事をすればいいのだ。吉野先生の次回作が、吉野先生らしい作品である事を期待するよ。 ……と思っていたら間髪いれず、同じような方向でより極端な少年――ご丁寧な事に声まで一緒だ――が主人公(?)なアニメの脚本書いているよ、この人。『アクセル・ワールド』はスルーつもりだったのに。第1話の触りだけ見て切るつもりだったんだが、原作――頭の方をちょっと読んだだけだが――よりも印象がいいんで結局最後まで見てしまい、クレジット見て噴く羽目になった。どういう話でもそれなりに上手くやってしまうので便利使いされてしまうんだなあ。 つーか、まさかこの仕事が入ったから『ギルティクラウン』全話担当する事が出来なかったのか。だとするとマジで泣けるぞ。どっかにそこら辺の事情が明らかにされていないだろうか。「制作現場で何があったのか」がこんなに気になるのは初めてだ。 2012年 03月 21日
痛し痒しな内容だ。
面白いし、テンション上がるし、いい話だと感動もする。ただしそれは、これまであった事のいくつかをすっぱり忘れたり、都合良く解釈した場合の話。ここに至るまでの迷走を思い返すと、逆に頭を抱える事がしばしば。キャッチコピーとか宣伝とかでお客に期待させたのはこういう展開と乗りだったから、やっと正しい形になったとも言えるんだが、「じゃあ今までのは何だったの」と思わずにもいられない。あんだけ迷走していた話を表面だけでも綺麗に整えたのは大した物だと思うが、やはりそれは表面だけの事なので、一皮剥いてしまうとかなりゴチャゴチャだったりする。 その最たる物が、集といのりが互いに対する気持ちを言葉にするシーン。当人たちに感情移入して聞いていると感動的なシーンなのだが、少し距離を置いて客観的に二人の台詞を並べて見ると、「傷を舐めあっている」「同類相憐れむ」などのろくでもない言葉ばかり浮かんできてしまう。あと、集の「いのりだけが、ずっと側にいて、僕を信じてくれたんだ」という台詞を聞くと、「そうですか。祭の事は忘れましたか。そうですか」と突っ込まずにはいられない。 祭は集の弱さとかを肯定しなかったし、論理的に矛盾している訳ではない。でも端から見ると、祭の愛し方のほうが、いのりのそれよりもまっとうだし、集の為になっていると思う。過大評価する事で集にプレッシャーを与えていたが、それくらいのプレッシャーはいい意味でのレッテル効果を発する物。それで強くなるのは悪い事ではあるまい。実際、強くなったからこそ、今そこに立っていられるのだから。 弱さとかを肯定する事が、必要だったり良い事だったりする場合はあるが、それはむしろ普段強く生きている人間に対してする事。綾瀬の「手伝ってもらってもいい?」の印象が良いのは、これまで彼女が自力で出来る事は自分でやって来ていたから。もし最初から最後までこの調子だったら、「ちったあ、自分でがんばれよ」と逆の感情が生じていただろう。実際、自分の弱さを言い訳にしていた嫌いのある集にああいう事を言われると微妙に釈然としない。そして困った事に(毎度の事ながら)むしろ涯が言った方がしっくり来そうだと思ってしまった。実際、周りの連中が強い所ばかりをありがたがって自分たちに都合の良い理想像を勝手に見る中、いのりだけが弱さを見て認めてくれていた。 ところで、甦った涯が普通に正気を維持していた事もまた、痛し痒しだ。 とりあえず「嫌な美形ライバルになった涯を『オレたち』の代表たる元ヘタレの集が断罪抹殺する」というルサンチマン大爆発な結末にはなりそうにないので一安心。「顔が良くて有能で性格のいい男なんて存在してたまるか」というマイナス方向の願望をスルーしたのは大した物だ。あと、涯がまともだった事に引っ張られて、研二と亞里沙の株が少し持ち直したのも結構な事――こいつら+ユウの四人で「じゃあやるか」と敵の大軍を相手にするのを見て「こっちの仲間になるのも悪く無さそうだ」と思ってしまった――。 でも、涯がここまでまとも――自分のやっている事の罪深さや無意味さもきっちり理解していそう――だと、最終的に集がお株を奪われそうで恐い。実質的には主人公であるライバルキャラに名だけの主役が勝ちを譲ってもらうという、一時期のガンダム外伝的な結末はそれはそれで勘弁して欲しい。実際ここに至って、更に涯が主人公らしくなってきてしまった。とりあえず、「選ばれし者の苦悩」という点では間違いなくこちらの方が上だ。 昨今ありがちな「最初から最後まで甘やかされている」「そいつの為に世界がある」という主人公に較べれば、集は苦労しているし頑張っている。でも涯と較べると、随分と気楽な位置にいると思う。なにしろ集の場合、個人的な欲求を満たす事と社会的な正義が同じ方向にあるから。 「全ての人類を滅ぼして未来永劫真名と二人で生きる事を誓いますか?」という質問に対して涯はイエスと答え、集はノーと答える。それを持ってユウは「涯の方が上」と評価しているが、それは無論ユウもしくはダートの価値観での評価で現世の価値観ではない。一連のやりとりによって、視聴者は「集の方が涯よりもまとも」という印象を受ける。むしろ「集の方が上」という格付けを示す為のプロセスと見るべきであろう。 でも冷静に考えると、これって詐術だよなあ。なにしろ涯と集では前提条件が違う。同じ質問でも受け手の立場によって意味合いが変わってくる。そういった事を無視して答えだけ較べても意味が無い。 涯の場合、真名は、というか真名への気持ちは自分にとって一番重いもので、それを否定する事はこれまでの自分を全て否定する事。だから代わりに全人類を滅ぼすと言われても諦める事はできない。一方、集にとって真名は既に過去の存在であり、そもそも姉以上の存在だった事もない――あんな色気のある義母と間違いを犯さなかったぐらいだから、インセスト・タブーに興奮する性質でもないのだろう――。今更、こいつ一人の為にそれ以外の全てを捨てろと言われても、それこそ「何を言っているの」といった所だろう。 涯と比較するのなら、「いのりを助ける為に全人類を見捨てるか」みたいな質問をしなければならない。これでも完全に同一条件ではないが、それでもある程度は近づく。今の覚醒した集ならそう質問されても「ノーだ。いのりは助けるし、世界も他のみんなも犠牲にしない」ぐらいの答えは返すだろう。シチュエーションを多少弄ってそういう方向に持って行けばいいのに、なぜしないのか。何か裏があるのだろうか。 話を戻すが、「いのりだけが弱さとかを受け入れてくれた」という台詞は涯にこそ許されるのだが、今回の「悲しんでなどいない」に見られるように涯自身はその権利をむしろ放棄している。「集にとって真名が姉以上で無かったように、涯にとっていのりは『妹』以上では無かった」とか色々と事情は考えられるが結果として涯は自分が弱い事を許さなかった。そしてその為に、仲間たちも自分の弱さを許せなくなった。状況的に考えて仕方がない面は多々あれど、それは割と不幸な事だ。そういう方向で見ると、涯の在りようには問題があり、一方で「自分の弱さを許容してほしい」という集の在りようは満更悪い物ではない。相手の方も自分の弱さを押し殺さずに済むからな。 しかし、だからといってみんなで互いの駄目さを肯定しあって、そのまま駄目人間のままでいるのも問題だ。そもそも集にしてもいのりにしても、別に「今のままでいい」とは思っていない。「今よりマシな自分になりたい」という欲求は持っており、そういう所も互いに惹かれあう要因になっている。で、そういう「今よりマシになる」にはやはり尻を引っぱたいてくれる人間がいた方がいいんだ。いのりにとって涯はそういう存在だったし、集にとっての祭も多少だがそういう存在だったのであろう。 無論、恋愛感情は理性とは対極にある物。向上心に惹かれあっているはずなのに、互いを甘やかして堕落させあうなんて事も、恋愛という文脈なら許されるのだ。自分が魅力を感じるような真っ当な人になってほしいがそうするのは自分ではない、という事。厳しく接している人たちはいい面の皮。いのりを妹程度にしか思っていない涯はともかく、集に普通に恋していた祭は報われないな。 色々と考えてみたが、テーマ的に上手く一本に繋がりそうで、やっぱりなんか繋がらないな。「主人公である集がテーマ的に正しい存在になる」「いのりと集がばっちし恋愛関係になる」「涯は敵になるが、それでもある程度は正しい存在で居続ける」といった、外してはならないポイントをしっかり押さえようとする姿勢は評価できるが、その三つが互いに邪魔をしあって必ずしも上手く行っていない。まして、周辺部分の話ともなると今回祭の事がスルーされたように、全然手が回っていない。 次回が最終回なようだが、あと一回でどれだけの事ができるのやら。まあ、ここまで来ると、もう駄目元で見るしかないのだが。 2012年 03月 14日
過去話。なので既に死んでいる人も登場できる。名前こそ頻繁に出ていたが、これまでは遺影さえも出ていなかった桜満黒周も、残り僅かなここに至ってやっと登場。
しかし、関俊彦か。茎道修一郎が井上和彦なんで年寄りとしては色々と感慨深い。『赤い光弾ジリオン』、いや子安武人もいるからむしろ『天空戦記シュラト』か。井上和彦というと微妙に「過去の人」というイメージがあるのだが、関俊彦や子安武人はその井上和彦が現役バリバリの時にデビューして競演してたんだよなあ。そうやって改めて考えると、関や子安のキャリアの長さに感心せざるを得ない。 割と瑣末な事から書き始めたが、これってある意味、幸せの証し。なにせここ数回は話の出来に問題があって、それを指摘するだけで手一杯だったからな。今回は久しぶりに見てる最中、悪い意味で引っ掛かる所が無かったので、余裕を持って楽しむ事が出来た。 で、その井上和彦演じる所の茎道修一郎と関俊彦演じる所の桜満黒周のドラマだが、これが出会いから破局に至るまで、背骨がしっかり通った実に見事なものだった。それぞれをきちんと一人の人間として作っており、その上でその人らしい行動を重ねた結果としての悲劇なので、納得できてしまうのだ。二人とも困った人たちだが、双方の気持ちとも良くわかる。良くわかるように話が組んであるので、きちんと悲劇として受け取れるのだ。 もっとも、ここら辺の匙加減は難しく、わかりやすいようにとあまり卑近な理由にしてしまうと、逆に白けてしまう。駄目な脚本家だとここで「茎道がシジョウ・サエコに横恋慕していた」とかしてしまうんだが、そこまでやってしまうと、わかるわからないではなく「わかりたくない」になってしまう。 ところで黒周の最初の妻、つまり真名と集の母親である黒周サエコも初登場なのだが、名前や簡単なプロフィール、死んだ時の状況などしか描かれず、彼女がどういう人間で、どういう理由で黒周と結婚したのかは一切描かれなかった。黒周に対する春夏の気持ちが事細かに描かれたのとは対照的だ。今回の内容が生者による回想によって構成される一方で、彼女と特に親しかったレギュラーキャラがいないのだから、当然と言えば当然なのだが、結果として色々考えさせられる内容になっている。彼女も春夏と同じような感じで黒周の事を愛していたのか。それとも、天才である黒周の遺伝子を欲していたとか、そういう感じなのだろうか。真名が割と幼い頃から黒かったので、母親であるサエコも腹黒なのではないかと言う疑いが頭をよぎった――まあ、真名のあれは子供ならではの邪悪さ貪欲さで、本来ならば成長と共に備わるそれらを抑制する理性や良心の形成が、アポカリプスウィルスに感染する事で阻害されたと考えるべきだろう――。 これに限らず、はっきり言葉にされなかった事で、却って考えさせられたり心を揺さぶられたりする事が今回は色々とあった。茎道と黒周の最後のやりとりも、説明的な台詞を用いず、互いに対して発した言葉だけで話を紡いだので、むしろ言葉にならなかった気持ちが伝わってきた。 ところで、この最後のやりとりを聞いていると、集の空気の読めなさは父親譲りだとひしひしと感じた。もっとも生物的な遺伝というよりは、春夏の無意識の産物だろう。彼女には黒周のそういう部分も魅力に映るわけだから、息子にそういう兆候が現れても矯正しようという気はあまり起きないだろう。無意識にそういう風になるように仕向けさえしたかもしれない。そうでなくても子供とは親の期待を敏感に感じ取って、親の望むようになろうとするものだ。なんか考えれば考えるほど集が可哀想になって来てしまった。 それにしても、このアニメを見ていると、吉野弘幸の評価を上げるべきか下げるべきかでしばしば悩む。 今回みたいに出来のいい回を見ると、他の脚本家の書いたここ数回の内容が今一だっただけに、脚本家として格の違いを感じて「やっぱり凄い」と感じる。でも一方、シリーズ構成である事を考えると、他の脚本家が担当した回の内容にも責任はあるので、「人を使うの下手だなあ」と評価が下がる。でもでも、このアニメがリレー小説的に、あまりきっちり筋を決めず各話の担当が前回までの話を受けて割と自由に話を作っているであろう事が見えてくると、また評価が変わる。そうなると各話の話の出来の良し悪しは、概ねその回の担当の責任という事になるからな――誰がこういうシステムにする事を決めたかで、多少話が変わってくるが――。特にこういうシステムだと、他の脚本家がふったネタをどれだけ取り込めるかという点で力量が問われるのだが、その点でも差が出ている。 大河内一楼にしても鋼屋ジンにしても、それまでに他の脚本家が出したネタを全然有効利用していないからな。自分では思いつかないネタを取り込む事で自分の器以上の話を組むようでなければこういう事をやる意味がないのだが、実際には自分の枠から出ようとしていない。無理やり自分の枠内に押し込んでしまうか、入らないからと切り捨ててしまうかのどちらかだ。 吉野弘幸だけが積極的に取り込もうとしているように見える。百発百中とは言えないが、それでも意欲は感じるし、当たった時は大きい。今回の友人たちとの和解、特に颯太との仲直りなんかは最たる物。散々グダグタやってきた颯太とのストーリーが、まさかこんなに綺麗に手短にまとめられるとは。しかも、それまでのグダグダを切り捨てるのではなく、それを取り込んでまとめやがった。更には今回の過去話とも上手くリンクさせ、テーマ的な部分にまで昇華させている。 魂館颯太というキャラに対しては当初から微妙に思っていた。主人公の友人たちを揃える時にこういうキャラを一人入れるのはセオリーだが、正直あまりいいセオリーだとは思えなかった。余程気をつけないとあっさり雰囲気をぶち壊してしまうタイプだからな。特に吉野弘幸はこの手のキャラを描くのは下手そう――好きじゃないのか今一つ理解できないのか――なので尚更。 で、実際に雰囲気を壊していると思われる事がシリアスな展開の時とかにしばしばあった。案の定といった感じ。今の時代にこういうキャラを出すのなら逆に余程の覚悟が無きゃ駄目だよなあ、と思った物だった。 しかし結果はご覧の通り。途中経過がグダグダだった事に変わりはないし、計算してやった訳でもないだろうから過大評価は禁物だが、それでも最終的には綺麗にまとめた。吉野弘幸一人で書いていたら、この結果は得られなかっだろう。 このリレー小説的な作り方にあまりいい感情を抱いていなかったが、今回の話によって少し肯定的に見れるようになったよ。 2012年 03月 08日
「見損なったぞ、スカーフェイス!」
むしろ今回言うべき台詞だな。 後半戦に入ってキャラの劣化が激しいこのアニメにおいて、嘘界は当初の魅力を(ぎりぎりではあるが)維持していた数少ないキャラだったんたが、結局はこの有り様。しかも今回死んでしまったので挽回の機会も無い。あの人も死ぬ前には駄目な人になりました。と言うか、今回(主人公が)殺すんで急遽駄目な人にしたんだろう。ひどい泥縄だ。しかも、こいつは無理して殺すキャラでは実はないんで、二重三重に(話が)ダメダメだ。 イッちゃった言動の所為で気付きにくいが、嘘界って実のところ明確に「敵」とか「悪」とか言い切れるキャラじゃないんだよ。例えば茎道のように主人公である集と真っ向から対立する訳ではない。状況によっては利害が一致するので、実際に助けてくれる事さえあった。また、グエン少佐やかつてのダリルのように罪も力もない人々を一方的に殺すような事も、(前回までは)あまりしている様子が無かった。やり方は常にえげつないが、その対象は概ね堅気ではない――初登場時に拷問にかけていたのも、麻薬の密売人だった――。やるかやられるかの関係である以上、一方的に非難は出来ない。 かようなポジションにいるキャラなので、集がこいつを殺した事を「成長や覚醒の証し」みたいに描く流れには違和感を盛大に覚えた。「強敵を倒した」ことにもならないし、「巨悪を裁いた」ことにもならないからな。一方で、悪人とも言い切れないが決して善人とは言えないキャラだし、助けてもらった事はあったが恩義を感じるようなシチュエーションでもなかったので、「自分には良くしてくれたが、他のみんなには害を与える存在。忘恩の罪を被っても自分が殺すしかない」という方向で見る事も出来ない。 人格・価値観や能力、あるいはこちらとの関係などを考えると、嘘界は殺すのではなく、上手く取り引きをして互いに互いを利用するのが正しい。実際、涯は6話でそれをやっていた。今回の状況でも、さほど難しいとは思えない。「仲間に手を出すのをやめろ。そして僕に協力しろ。その代わりにあんたが見たい物を見せてやる」ぐらいやれば簡単に行きそうだ。 気まぐれで行動しているように見えて、自分の安全はきっちり確保していたからな。不利な状況になれば交渉のテーブルに着くし、そこまでいかなくても撤退するだろう。とりあえず、今回みたいに無謀に突っ込んでくるような奴じゃなかったはずなんだが……。 まあ、そういう要領の良さも主人公側に立つと嫌悪と憎悪の要素になる。結局、そういう客のマイナス感情に迎合する方向で殺すことが決定されたのだろうか。第三者的な視点で見ると「気に食わない奴を殺せるようになった」=「強くなった」という描かれたには首を傾げざるを得なかった。作っている方の意図は推測するしかないが、結果としてピントがずれていたのは間違いない。 まあ今回は――あるいは今回も――全編通してピントがずれまくっていたけどね。収まる所に収まっていたように感じられたのは春夏を「母さん」と呼んだ件ぐらい。大雲の死と颯太のキャンサー化が治った件が可も無く不可も無く。他は片端から駄目だ。特に肝心要の集が再びヴォイドの力を得るくだりがひどい。これに較べれば嘘界の扱いなど些細な事だ。 集がヴォイドゲノムを使う事が、あたかも自己犠牲の極みのように描かれていたが、なんか違うだろう、それ。ラストに当人が言っていたように、こいつの目的はいのりを取り返す事、多少言葉を選んでも助ける事だ。別に悪い事ではないが、根本的には個人的な問題だ。仲間を助けたり、茎道や涯の野望を挫いたりするつもりは無論あるだろうが、優先順位としては低かろう。大切な女の子を助けたいという欲求に従っているだけだ。正義とか「みんな」の為に自分を犠牲にしている訳ではない。 古い価値観だと家族とか身内を守るのは個人の利益で、自己を犠牲にするというのならむしろ一緒に犠牲にされるもの。現代だとそこまで行かないが、それでも分けて考えるべきではあろう。「いのりを犠牲にすれば世界は救われます」と言われて諦められるんなら別だが、そうではあるまい。 だったら、「僕がやってあげます」的な描き方ではなく、もっと徹底的に「僕にやらせてください」的な描き方をしないと。ヴォイドゲノムを使う事には諸々のリスクがあるが、それを考慮しても力を欲している奴はいるんだ。綾瀬は実際、おそらく涯に対する感情にけりをつける為に欲していた。谷尋なんかも、弟みたいな犠牲者を出さない為には力が必要だと痛感していたから、話を聞けば立候補したかもしれない。そういう連中を差し置いて「自分が」と言うのだから、ちゃんと自分の事情や気持ちを説明して、頭を下げてお願いするぐらいでちょうどいい。 そもそも再びヴォイドの力を手にする事を決意する過程が御座なりだったからな。流石にクライマックスに入っていく段階だから、集を主人公らしく覚醒させていたが、なんか方向が間違っていた。描くべきは、ヴォイドと右腕を無くした状態でもなお諦めずに頑張る姿だろう。そこをきっちりやらないと、ヴォイドを使うというより、ヴォイドに使われているような印象を受けてしまう。無力な状態で色々と苦労して、その上で「やはり力がないと話にならない」と実感するべきだ。「無力だからやらなくていい」でも「力があるからやる」でもなく、やりたい事、やるべき事があるから力が必要。その事をきっちり自覚させた上で、仲間にきちんと「いのりを自分の力で助けたいのでそれを下さい」と言うべきだ。その上で力がある者の義務として、仲間を助けたり敵の野望を挫いたりすればよろしい。 なんか無理やり集をみんなの為に自分を犠牲にする理想的な王様にしていた感がある――だったらせめて、心の中で呼びかけるのはいのりじゃなくて祭にしろよ――。四分儀――今回はこいつにも失望した――に涯を「個人的な目的の為に葬儀社の連中を利用した」と非難させていた事と合わせて見ると、どうやらマジで、個人的な望みを何も持たず、みんなの為に自分を犠牲にするのが指導者のあるべき姿と言いたいようだな、このアニメのスタッフ、特に大河内一楼は。 こういうご時世だからそういう事を言いたくなるのはわかるんだが、実際にこういうご時世にそういう事を言ってしまう事に、半ば呆れかえり、半ば恐怖する。むしろそういう論理的に存在し得ないものを民衆が指導者に求める事が、昨今のぐだぐだの原因の一つだろうに。 人間は結局は自分の利益の為にしか動かない。一見、利他的に見える行為でもその根本には何らかの個人的な欲求や快楽――例えば人に感謝されると嬉しい――がある。厳密な意味で個人的な欲求を持たず他人の為だけに働く人間など存在しない。そんな事は自分の内面を冷静に認めてみれば、誰にでもわかる事だ。 にも関わらず政治家とか指導者とかには、完全な自己犠牲を求めるんだよな。ハイスペックな能力と強靭な精神力の全てを人々の為に用い、どんなに謂れの無い非難を受けても弁解せず、反省してより公共に尽くす究極の奴隷。そんな奴がいるわけも無いのに。 そういった意味で、涯の行動の根幹にあるのが恋愛感情という極めて個人的で利己的なものだというのは良かった。 指導者だって人間だ。根本的な所では個人的な目的の為に動く。それを非難しても始まらない。むしろそういう指導者個人の利益の追求が結果として組織とその構成員の利益に繋がるように、むしろ組織の方を整えるべきだ。そして、その為にまずするべき事は構成員に、「指導者だって自分たちと同じ自分の利益の為に生きている人間」という事をわからせる事だ。 シリーズ前半の内容はむしろそういう事を言っていたように見えたんだが。と言うか、吉野弘幸と大河内一楼で全然主張している事が違うよ。シリーズ構成は視聴者を啓蒙する前に、まず横にいる副シリーズ構成を啓蒙すべきなんじゃないだろうか。比較して見ると大河内一楼の見識の低さが露呈してしまって、むしろ可哀想だぞ。 まあ、大河内一楼は大河内一楼でファンタジーと割り切っているのかもしれないけどね。実際、そこまで自己を犠牲にしてしまう存在は現世ではあり得ない。政治指導者というよりも宗教における救世主になる。実際、イエス・キリスト辺りのイメージで描いているように見える――偽りの王として辱められたり、手に聖痕を付けられたり――。「日本のSFは最後には必ず宗教的になる」の法則からすると、むしろ正統かもしれない。 2012年 03月 07日
鋼屋ジンらしく、悪い意味でわかりやすかった。つーか、無駄にわかりやすいので見ている最中に誰が脚本書いたのか予想出来てしまった。
とりあえず、登場人物が自分の気持ちを長々と(視聴者に対して)語るのはやめてほしい。最近のラノベとかエロゲーとかではむしろ標準なのは知っているが、アニメでまでそれをやらんでくれ。こちとらそういうのに対応できないからアニメ見るぐらいしかしなくなったんだから。それに、今回みたいに実際にアニメでやられると、やっぱり盛大に白けるぞ。春夏の独白でまず微妙な気分になったが、それはまだマシで、肝心のヒロインであるいのりのがもっと酷かった。自身の気持ちさえ良くわからなかったはずのキャラが、いきなりはっきり明確に自分の気持ちを言語化する様は、盛大に違和感があった。話し方がしっくり来ていなかった辺りを見るに、演じている人間からして戸惑いがあったのだろう。 それでもここら辺は表現の問題だからまだいい。半ば以上は絵コンテ・演出の問題だし――言葉で作られたドラマを言葉以外の方法で伝えるのが演出家の仕事――。より重要な問題は、今回一回で敵と味方、言い換えれば幸せになりそうな奴と破滅しそうな奴がわかりやすく分かれてしまった事だ。この場合の「わかりやすく」は実際に誰がどっちになったかがわかりやすいという意味とは別に、なぜそいつがそっちになったかという理由がわかりやすいという意味がある。かなり露骨に、主人公の立場で見た場合に好ましい感情を抱くか否なで分けられていた。 なんとも配慮の行き届いた事。客を甘やかす、過剰な親切設計だ。 確かに嫌な奴は敵に回ってくれた方がむしろありがたい。城戸研二がいい例だが、嫌な奴が味方にいるとストレスが溜まる。なにしろ味方である限りは、幾ら嫌な奴でもいなくなって欲しいと願う事に後ろめたさを感じる。味方が減る事は共同体にとっては大抵損失だ。感情的な問題でそれを願うのは共同体の不利益を望む事であり、仮にそれを実行すれば悪となってしまう類いの事。好き嫌いと善悪が反発しあうんだから、そりゃストレスも溜まる。 敵に回ってくれるとそれが解消される。なにしろそいつはこちらが属する共同体に不利益をもたらす存在、即ち悪になったのだ。その消滅は共同体の利益になるのだから、それを願う事は正当。好き嫌いと善悪が合致する。客としては(深く考えなければ)非常に都合がいい。 また、作っている方としても、客に嫌われている奴を敵に回すのは都合がいい。なにしろ生かしておけば客の不満が蓄積して作品自体と制作者に対する感情をも悪くする。そのまま最後まで生かしておいたらそれこそ非難囂囂(ゴウゴウ)だ。しかし味方である以上、殺したりするならそれなりの手順が必要になる。改心させるという手もあるがそれも結構面倒だ。その点、敵にするというのはラクチン。敵に回ったという一事だけで、何時でも殺すことが出来るようになる。実際、親衛隊の四人は今回まとめて消去された。 薄っぺらい話だ。現状もっとも客に良い感情を持たれていないのは多分こいつら――特に男二人――だが、だからと言ってその感情に迎合するように一括処分というのも随分と志の低い事。作家たる者、もう少し毅然と構えてこれまでとこれからの事を考えて筋を決めんと。 再生恙神涯の冷酷さを見せるのは間違っていないが、そういう場合の犠牲者はもっと罪の少ない連中の方がいい。そこで重罪人――主人公や視聴者から見て――を殺しても、むしろ「正しい裁きが為された」事にしかならない。他に適当な奴がいないとかって理由もあるだろうから、こいつらを犠牲者にする事が絶対に駄目とは言わないけど、それならそれで少しは工夫をしないと。片方の女は「集に心酔していた」なんて設定があったんだから、裏切る上でそれなりに葛藤とかもあっただろう。泥縄的にはなるがそこら辺を描いてから殺すぐらいはしてくれないと、しっくり来ないぞ。 そもそも全員殺す必要はなかった。男二人は死んだ事自体がしっくり来ない。これまでの経緯を見ていると、ちゃっかり涯に取り入ってかつての主――集――を狩る側に回りそうだ。考えるだけで不愉快ではあるが、その方が自然だし、そこで上手く立ち回るような奴らだから嫌悪の対象になって来たのだろう。ここ最近の展開は不愉快ではあったが、中途半端に終わらせられると余計に不愉快になる。亞里沙のドラマの為にも、こいつらはもう少し生かしておくべきだったんじゃないだろうか。 もっとも当の亞里沙自身がもはや「終わっている」んだけどね。 爺さんを撃ち殺したからではない。その爺さんに死ぬ前に「おまえは本当に頭が悪い」ときっぱり言われてしまったからだ。 実際、誰もが一度はそう思うよ。何しろ彼女も涯の「女の為です」発言を一緒に聞いていたんだ。あれを聞いたにも関わらず、頑張れば涯の愛が得られると思っているのなら、少なくとも賢明ではない。 ただ、前回の亞里沙はそういう段階をとっくに越えてしまっていたんだ。駄目は駄目なんだけど、そういう、今回描かれたような駄目さとは種類が違っていたんだ。そして、前回みたいな駄目さなら、逆方向に突き抜けて変な方向に活躍する芽は残っていたんだ――最終的に破滅するのは避けられそうにないが――。 しかし今回の話で中途半端な所に戻されてしまった。本当に、ただのつまらない駄目人間になってしまった。これだとどういう方向にも期待できない。 来週以降の担当の気分しだいだから、これから活躍する可能性が無いとも言えないのだが、どうだろうねえ。もはや詰んでいるから、ここからどうこうするのは難しそうだ。無理やりどうこうしようとするかもしれないが、ここまで散々キャラをいじくってきてしまったから、流石にこれ以上やってしまうと一個のキャラとして完全に成り立たなくなってしまうだろう。もはや芽は無さそうだ。他のキャラのドラマの道具として使い潰される辺りが関の山だろう。 2012年 03月 06日
結局無難に、亞里沙はちょっと怪我をしただけだった。とりあえずは生き延びたな。もっとも、あそこで死んだ方がマシだったよ、見ている方の気分としては。
ああいう展開って、上手くやればキャラを魅力的にする事ができるし、そこまでいかなくても普通は同情を誘うのだが、今回のは嫌悪感の方が圧倒的に強かった。まあ、キャラというよりはこういう話を作ったスタッフ、特に脚本家に対してだがな。 毎度の事ながらキャラの行為や判断が上手く繋がっておらず、物語的な都合で動かされているのが露骨だった。特に動機や目的と手段の間に齟齬を感じずにはいられなかった。亞里沙を動かしたのが涯に対する気持ちだというのなら、彼女の行為が腑に落ちない。恋愛感情が動機なら、なぜ女としての価値を落とす(と彼女みたいな人間なら考えそうな)事をしてしまうのか。 そこまで追い詰められていた、と考える方が正しそうではあるが、そうすると今度は「なぜそこまで追い詰められた?」という事が腑に落ちなくなる。「いのりに襲われたから」というのが直接的な理由のようだが、それだけでいきなりあんなにチキンになるのか。そのちょっと前のシーンでは凄んでいたのに。 まあ、むしろ前回の「供奉院を見くびらないで」の方が間違っているんだけどね。「供奉院亞里沙」は初登場の時に出自と容姿以外は凡庸というキャラにされたんだ。そしてその後もその線で描かれている。たった一度のそのイメージに反する行為を、「隠された一面」とか「真価」とか考えるのは飛躍が過ぎる。むしろあれは「一生懸命に虚勢を張っている」と見るのが順当だ。涯に対する感情も純粋な恋愛感情ではなく、もっと利己的な物なのだろう。閉塞された状況から自分を救ってくれそうな人、という意味で涯に好意を持っていた――むしろ涯がわかった上で亞里沙のつぼを突いたのだろう――のなら、むしろ今回の流れは自然だ。亞里沙が涯の事を都合のいい救世主と思っているのなら、「穢れた自分でも救ってくれる」と思うだろうから、やっちまう前に躊躇しないし、やっちまった後に自己嫌悪もしないだろう――順番が逆で自己嫌悪しない為に涯を神格化したのかもしれない――。 かのように見れば、亞里沙のキャラには一貫性がある。間違ってはいない。しかし、その一貫性のあるキャラにまったくと言っていいほど魅力を感じられないのだ。真面目に前回のが唯一の例外かもしれない。 そもそも今一つ、何の為に物語に存在するのかわからんキャラだからな。スポンサーの孫とか生徒会長とかって位置付けだが、彼女の性格とか感情とかはそういった役割りにはまったく必要が無い。物語の中で彼女を彼女たらしめるのは、涯にメロメロといった事ぐらいだが、それも二番煎じだし。 もっともスタッフは、今回のストーリーを作る際に「涯に篭絡された女」がもう一人いて良かったと思った事であろう。なにしろ綾瀬にこういう事をさせる訳にはいかないからな。 今回感じた嫌悪感の中心はここだ。「こいつが一番こういう事をしそうだ」というのが亞里沙を生け贄に選んだ表向きな理由だろうが、その裏に「こいつだったらこういう事をさせても大丈夫そうだ」という保身の感情が見え隠れする。大河内一楼には前科もあるしな――小説版『08小隊』をパラパラと読んだ時に感じた不快感の正体が今になってわかった――。 同じ事を綾瀬やいのりや祭にやらせていたら、やはり嫌な気分にはなっていたではあろうが、一方で「思い切った事をしたなあ」と感心していただろう。どうせ泥を被らせるのならそういう安全地帯にいそうなキャラに被らせないと。今回の亞里沙、あるいは前々回の颯太のようにいつ泥を被ってもおかしく無さそうなキャラに泥を被せまくっても、うんざりするだけだ。 別の言い方をすれば、強い心を持っている人間の心が「バッキリ!」折れるから、ある種のカタルシスがあるのだ。ヘナヘナな心が折れ(曲がっ)ても当然過ぎて、うんざりするだけだ。ここら辺はむしろ今回の集に関して言うべきだろう。 集が惨めに敗北すること自体はそういうパートだから構わないんだが、いくらなんでもやり過ぎだ。弱さや愚かさは親近感を抱かせる為には有効だが、度が過ぎると流石にそうもいかなくなる。それともまさか、「自分より駄目な奴を見て優越感に浸れ」とでも言うのだろうか。もしそういう考えで作ってるのなら救いようが無いし、それに乗ってしまったらやっぱり救いようが無いぞ。「腕が! 僕の腕が!!」で普通に笑ってしまうようだと、かなりまずいぞ。 まあ、「王の力を宿す腕が!」という所に持って行くのは必ずしも悪い事ではないけどね。ただ、そこに持って行くのならそこに至るまではもう少し上手く描かないと。罪の代償を払う事を恐れていたという事は、ある程度予想出来ていたはず。「こんなにも早く」という面では「まさか」だが、起こった事態そのものはむしろ「やはり」だろう。いい加減色々な事に疲れている頃だろうし、だったらそこは自己陶酔気味に「いいように使われた挙げ句、最後はギロチンにかけられるのも王の宿命か」と諦めの境地に至るぐらいはしても良かった。その上で右腕を持って行かれれば、「王として死ぬ事さえ許されない」と絶望感が増したであろうに。 それと同軸の事だが、いのりが来た時に喜んじゃ駄目よ。一瞬喜ぶぐらいならいいが、そこは「来ちゃ駄目だ」ぐらい言わないと、主人公的に。なんか何時の間にか集のいのりに対する感情が、完全に自己本位な物になってしまったな。むしろ最初の頃の方が、多少なりとも守ろうとかする意志があったような気がする。 このアニメが『エヴァンゲリオン』のパクリである事はわかっているし、そのこと自体は別に構わないのだが、パクるにしてももう少し上手くパクらないと。パクリ元の場合、ヒロインは「お母さん」だからこういうシチュエーションで主人公が一方的に依存したとしても筋が通るんだが、こちらの場合は「お姉ちゃん」だからそうも行かない。「姉」の場合、年長の同胞(はらから)だから甘えや依存の対象になるんだが、その一方で(自分と同じくまだ大人になっていない)少女だから男の子としては守ってあげなければならない。この二律背反が「姉」を描く際の難しさであり、また面白さである。 ああ、そうか。大河内一楼は『∀ガンダム』と『キングゲイナー』には参加してたが、『ブレンパワード』には未参加だったか。あれに関わってればそういうニュアンスが嫌でもわかったであろうに。残念な話だ。 2012年 03月 04日
一応ネット回線復活。不動産屋が頑張ってくれた。
もっとも、きっちり直すには焼けた部屋をまず直さないとならないので仮設状態。変な所に線が通っているのを見ると突然切れるんじゃないかと不安になる――火災前から安定してなかったし――。 とは言え、とりあえずは普通に復旧。思ったより早かったので割と簡単に平常運転に戻れそう。断線中に放送した『ギルティクラウン』 の感想は大雑把に書いてあるので、推敲して順次アップの予定。 >NARUKAMIさん どうも御心配をおかけしました。 もっともネットに関しては最近はあまり熱心ではなく、繋がない日も結構あるような有り様だったので、精神的にはあまり問題はありませんでした。結局ネットカフェに行ったのも一回きりだったし――会員になった時に大量にもらったサービス券、果たして使う機会があるのやら――。 2012年 02月 22日
ブログの事ではない。住んでいるアパートで火が出たのだ。
もっとも発見と消火が早かったのか、燃えたのは火元である一番端の部屋とその隣だけ。ほぼ反対側の端にある、こちらの部屋に直接のダメージは無かった。 ただし、道路側の一番端の部屋が燃えた為に配線類に色々とダメージが。 まず電気が翌日の昼まで使えなかった。もっともこれは消防と警察が検査の為に一時的に切っただけのようで、すぐに回復した。一方、ガスも一日で回復したが、こちらはかなり無理したようだ。現在、変な位置にガスボンベが乱立していてそっからガス管が引かれている。 無理した事に関してはテレビも同様。自前のアンテナではなく、地元ケーブルテレビ局から引っ張っているのだが、焼けた部屋の修復が終わるまでは元のラインでは引っ張れないらしく、同軸ケーブルをベランダ側からエアコンの穴を通して直接テレビやレコーダーに繋いだ。それさえもできるまでに三日ほどかかったので、二晩は夜中にこっそり職場の休憩室に行ってテレビを見る破目になった。 それでもテレビはまだましだ。インターネット回線はいまだに復旧の目処さえ立っていない。おかげで今こうして、インターネットカフェのお世話になっている――生まれて初めて入った――。 そんな訳で更新は多分しばらくお休み。家で打ったデータをネットカフェに持ってくるという手もあるのだが、そこまでの気力が沸くかどうかは微妙。断線中でも気が向いたら何か書くつもりだが、締め切りが無いと動かないタイプなので、「復帰後に書き溜めた物を一気に」と行くかどうかも怪しい。むしろブランクを取り戻すのに時間がかかりそうだ。 2012年 02月 15日
見てて楽しい話ではないが、ストーリー的にそういうパートだから、それは構わない。むしろそういう楽しくないパートとしては良く出来ている。ただ、そういう方向で出来が良すぎるので逆に、なんかどうでも良くなってきてしまった。
レギュラーたちの一人一人が、なんとか状況を良くしようとしているんだが、結果としてはどんどん悪くなっていく。追い込み方としてはなかなか上手いと思う。個々のキャラが概ねその性格に従った動きをしており、物語的な都合で動かされている感じがあまりしない――谷尋の動機が不明瞭だが、これはわざとだろう――のは評価していい。 しかし逆にそれ故に、底とか限界とかが見えてしまって「こいつらが幾ら頑張ってもどうにもならん。破滅が待つのみだ」と、先行きに期待しなくなってしまった。それどころか「むしろ、浅慮の代償として破滅するべきだ」とさえ思ってしまった。 例えば、綾瀬やアルゴの集に対する批判。あれがむしろ集に対する好意から発している物であるのはわかるんだが、それでもあの上からの物言いには「なんだかなあ」という気分になる。「格下だと思っていた集が偉くなったのが気に食わない」とまでは思っていないだろうが、それでも集の立場で考えてみていないのは確かだろうし、集を理解しようとしていないのも確かだ。集が考えを変えない/戻さないのも無理はない。上手く行かなくてむしろホッとした。 一方で、困った事に集の方にも全面的には同情出来ない。こいつはこいつでアルゴたちに理解してもらおうとしていないから。いのりに逃げ込んでいる様を見ているとげんなりする。マナお姉ちゃん的には「してやったり(ニヤリ)」と言った所だろう。 つーか、かつてはいのりの代わりを祭に求めて、今は祭の代わりをいのりに求めるているよ、こいつ。まったく進歩していないな。 そもそも、いま通っている道はかつて涯が通った間違った道だろう。そこから何も学ばなかったのか。アルゴたちも結局、涯の時の過ちを繰り返しているようだし――こちらは間違っていた事を気付く機会がそもそも無かったので仕方が無い面はあるのだが――。 そんなこんなで、「もう完全バットエンドでもいいかあ」という気分になってしまった。少し前までは「どうにかならないのか」と思っていたが、今回の話を見て「どうにもならなくていいや」と思うようになってしまった。 もっとも今回の話を見てると逆に、どうにかなってしまうんじゃないかと思えてきた。 「ヴォイドが壊されると持ち主も死んでしまう」という真実は新たな恐怖として主人公たちに受け取られているが、テレビの前で見ている身としてはむしろ脱出路が確保されたと受け止めた。普通じゃない死に方ならば、生き返ったとしてもさほど不自然ではないからな。 祭の死に方が不自然だったので、何かあるとは思っていたし、ヴォイドを壊された事が関係しているとは思っていた――真相は予想以上にダイレクトな物だった――。しかし、より思った事は「涯の時と死に方が似ているな」という事だった。涯の場合はウィルスに感染しているので、それが一気に進行して死んだんだな、と特に疑問に思わなかったが、祭の場合そういう話は特に無かったので同様な死に方に不自然さと何らかの意図を感じていた。それで今回明かされた真相だ。なんか最終回ではのうのうとみんな生き返りそうな気配を感じる。 割とハードなストーリーに見えるが、実のところ味方側で名前のあるキャラってあまり死んでいない。しかも、普通に死んだのって、キョウぐらいだ。他は寒川潤にしても、祭にしても、涯にしてもアポカリプスやヴォイドがらみで変な死に方をしている。アポカリプスウィルスにしてもヴォイドにしても、全容が明らかにされていないので、話を作っている方がその気になれば何時でも「実は死んでいないんです」とか出来てしまう。実際、涯は早々に甦ってしまったし。 大人しく死んでおればいいものを。生き返ってもあんまりいいこと無さそうだぞ、自分にも他人にも。まあ、当人が生き返りたくて生き返ったわけでは多分ないんだろうけど。それ以前にあれが本当に涯かどうかもわらないし――マナに対するいのりのような存在かもしれない――。 (はっきりしない面もあるが)かのように一人生き返ってしまったようなので、のうのうと全員生き返る可能性が強まった。吉野弘幸は一度やっているので当然のようにそれが疑われる。 もっとも一度やっているから逆に無いとも思える。「同じネタを二度やらない」が手品の基本である事はわかっていそうだし、あの時とは状況が違う事もわかっているだろう。あれは全員死んだままでも話的には綺麗にまとめられるからこそ、やって許されるし、やって意義がある事だったのだ。ここまでぐだぐだになってしまっては、(たとえそれが意図的なぐだぐたであったとしても)ただの逃げにしかならない。 一体どっちのつもりなのか。今回の引きの真相が試金石になるな。あれで亜里沙がすっぱり死んでいたら、とりあえず「ヴォイドで死んだ人はヴォイドで生き返らせる事が出来る」→「レギュラー全員生還」という線は無くなる。一方で、無難に「派手に血が飛んでましたがちょっと怪我しただけです」とか、大裏かいて「斬られたのはいのりの方。供奉院を見くびらないで」とかだったら、少なくとも可能性は残る。 まあ、次回の脚本担当しだいなんだろうけど。このアニメ、リレー小説的に話を作っている気配が濃厚だからな。次回の担当が「もういいからここで殺してしまおう」と思えば殺された事になるし、「もう少し生かしておきたい」と思ったら、死んではいない事になるのだろう。今回の担当(吉野弘幸)も自分では真相は考えていないのだろう、多分。 2012年 02月 07日
なんかまた、評価してやりたいんだけど評価できない話だ。祭が死んで集がぐれるという大筋自体は(物語としては)悪くないんだけど、細部の詰め方が甘いので微妙な気分にしかなれない。とりあえず、幾らショックを受けていたとは言え、「祭は自分を肯定してくれたのに」と言った直後に「今までの自分は間違っていた」と繋げるのはいかがな物か。同情とか共感とかする前に頭の悪さに呆れてしまった。
これからしばらくの集の行動は後々には「間違った事」とされる物であろうから問題がある事自体は構わないのだが、「自分を好きだった祭が死んだから」というきっかけと変容が上手く繋がらないのは問題だ。作中でもこれを「理屈が通っていない」という意味でも間違った事として扱われるのなら問題ないのだが、如何せん会話した時は二人きりだったからな。登場人物の誰かが視聴者の代わりに突っ込んでくれるのもあまり期待できない。 あの二人の会話のシーンは色々な意味で問題が多かった。スムーズに言葉が繋がっていたので、逆に深みが無い。むしろ「慰めてあげたいんだけど、どう言っていいかわからない」「好きなんだけど、どうして好きなのかは自分でも良くわからない」ぐらいのニュアンスの方が好ましかった。それで「死ぬ直前にわかったが、それは集には届かない」とかしとけば、集の取り乱しっぷりも同情の対象になったのに。 大体からして10話の内容からすれば、集は祭が自分に好意を持っていた事は薄々気付いているはずだし、自分が祭よりもいのりの方が好きな事を祭に気付かれていた事も知っているはず。その状況で自分に対する好意の言葉や告白なんかされても、後ろめたさを感じまくってしまい素直に喜んだり温かい気分にはなれないだろう――ドキドキするだろうが、それは冷や汗を伴なうドキドキだ――。いのりとの関係まで絡ませてしまうと一話で話をまとめられないから誤魔化そうとしたのかもれないが、毎週きちんと見ている人間だったら違和感を覚えるぞ。 手順を間違えた、と言うべきか。先に、現時点で集がいのりに対してどういう感情を抱いているかをある程度は描いておくべきだったな。そもそもいのりが「姉のクローン的な何か」であるという事実に対して集がどう思っているかが全然描かれていないから。恋愛感情の面から見ればかなり重い情報のはず。それを集が、というよりこのアニメのスタッフがたなざらしにしてしまったから話が不自然になる。集がそこから目をそらしていると言うのならそれはそれで物語としてはありだ――キャラ的に彼らしいし――が、それならそれでその「目をそらしている」事は描かなければならない。「彼女は自分にとって大切な存在だけど血が繋がっているのなら結ばれる事は出来ない。これからは妹のように思う事にしよう」などと割り切っているというのなら、もちろんその事を描かなければならない。 「集が暗黒道に堕ちる」という結果が先にあってそこに持って行く為に祭を殺したのが露骨過ぎて白けてしまう。そしてそれは颯太も同様、いやそれ以上だ。今回の一件に颯太を絡めたのはやり過ぎだ。逆に祭の死によるショックがぼやけてしまっている。元々颯太は集にとって苦手な相手だし、視聴者から見ても微妙なキャラ。こいつと集が仲違いしても嫌な気分になるだけで悲しくなったりはしない。 ここで颯太を使ってしまうのはカードの無駄使いでしかない。こういうキャラはむしろここぞと言う時にプラス方向に動かすべきだ。その方がいい意味で意外性がある。 ちょっと話がそれるが、「Fランクだから颯太は見捨ててもいい」というのは倫理や感情の面を差っ引いても、いいことでない。なにしろ颯太のヴォイドの有用性は二度に渡って証明されている。いざという時の事を考えればあって損は無い物だし、脱出には必須のアイテムだ。ランクが低いからといって捨てるのは愚行だ――待っていれば外から助けが来ると高をくくって、自力脱出を考えていなさそうなのがそもそもの問題なのだが、それはとりあえず置いておく――。 この事からもわかるように、ヴォイドの強度だけを見て質を見ないランク制には問題点が多すぎる。「階級があった方が支配するのに都合がいい」ぐらいならわかるが、見殺しにするとまで言ってしまったからな。これでは上手く行くとは思えない。とりあえず集が(そこまで深く考えてはいなかっただろうが)そういう方向で反対したのは良かったし、その集が結局はランク制を取り入れてしまうのに一話使った事自体は悪くなかったと思う。 もっともこういう穴って、今回の話の都合の為に颯太をFランクにしてしまった事によって生じた物だから、それさえなければ全否定できる物でもなかったんだけどね。そういう面から見ても、今回の話で馬鹿やらかすのは(前回とは逆に)モブキャラで良かった。元々相手が誰であっても、一方的に暴力を振るったり、暴言を吐いたりする人間じゃないんだ。相手が誰であっても「人が変わってしまった」という印象は変わらない。それこそ前回騒いでいた馬鹿どもとかにしておけば、「こんな奴らに情けをかけだはかりに」という感情を視聴者とも共有できたであろうに。
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