「なんかぬるいね、色々。吉野のやつは何やってんの」
もはや5話ぐらいまでとは別のアニメのようだ。妙にわかりやすいし。
ぬるいのもわかりやすいのも、それ自体は別に悪い事ではない。「アニメは基本的に子供が見る物」と考えている人間としては、普段だったら肯定する。でも、序盤の展開とか乗りとかを思い返すと首を傾げざるを得ない。
今回のメインラインである魂館颯太との一件も、今回単体で見れば「多少底が浅いが、どうこう言うほどでもない。まあ、こんな物だろう」で済んだ。でも3話の谷尋との一件と比較すると、そうも行かなくなる。なにせ、やっている事は大して変わらないのに結果が正反対だからな。
集が谷尋との事で何かを学んでその結果として「今回は上手く行った」だったら良いんだが、別にそういう訳ではないようだからな。明暗を分けたのは相手側の事情が違ったからに過ぎない。それなのに、なんか「正しい事をやったから正しい結果にたどり着いた」的な描かれたするので「なんだかなあ」と思わずにいられない――緩衝役だった谷尋がいなくなったので却って本音でぶつかり合う事が出来るようになった、という面では筋が通っているが――。
一方、今回はメインラインとはあまり関係の無い短いエピソードが挿入されていたのだが、これもまた首を傾げざるを得ない代物だった。ダリルや校条祭の事情やら気持ちやらが描かれていたのだが、これがナンともカンとも。前回の亜里沙にしてもそうだが、妙にわかりやすい。当人たちのキャラがわかりやすいと言うのもあるのだが、それ以上にその見せ方がわかりやすい。あからさまに観客を意識した言動やシチュエーションが並べられていた。
これもまた、普通のアニメだったらそれで別に構わない類いの事だ。でも、このアニメだと問題だ。だって基本的には主人公を通して伝えられる話だったろう。
序盤――1~5話、6話はちと微妙――では概ね集の視線で描いていた。集がいない状況、見てない出来事が描かれる事もあったが、その場合でも「答え」を与えられるような事は無かった。むしろ、より「わからなく」なる事の方が多かった。それなのに、ここ最近は集を飛び越えてわかりやすく答えが与えられてしまっている。
確かに序盤の「わかり難さ」はストレスの要因ではあった。主人公がわからない状態に置かれるので、主人公に感情移入しているこちらもわからない状態に置かれ、イライラする。しかも、わからない状態に置かれた主人公が、わからない状態を受け入れてしまって――わからなければ責任がないと考えているのか――能動的にわかろうとしないので更にイライラする。二重の意味でストレスが溜まった。序盤の展開や乗りには、非難が多かった事だろう。
しかし、それは何らかの理由があって意図的にやっていた事なのだろう。だったらそれは通さなきゃ。今回のラストで集が「もっとちゃんとわかるようにならないと」的な事を言っていたが、そういう展開になるならなおの事、視聴者が先に行ってしまっては駄目だろう。これから集が色々とわかるようになって行く事で、視聴者もわかるようになっていく。それまでストレスを溜めた分、わかった時のカタルシスは大きい――。本来はそうなるべきなのだが、なんか今回――厳密に言うと前回からか――ルールを破っちまったので台無しになってしまった。今回の話の所為で「必要なストレス」「意味のあるストレス」になり得た物が、本当にただのストレスになってしまったかもしれない。
脚本家が違うから仕方がない面があるんだが、乗りが変わってきているな。受けが良くなかったから方針転換……にしては早過ぎるか。やはりスタッフ内でコンセンサスが得られていないのか。案外、吉野弘幸が一人で先走ってしまったのかも知れない。意図的にわかり難くしているのを見てると、彼が『SEED』の脚本家でもあったのを思い出す。あれは確かどこかで監督が「わざとわかり難くした」と明言していた。
この「わざとわかり難くする」という作り方も是非が決め難い。あれもこれも、自分一人で見ている分には不親切な作りに盛大に愚痴が出るのだが、世間の感想とかを見ていると逆に肯定したくなる。最近は一から十まで説明しないと理解できないお客が多くて困る。世の中、わかろうと努力しないとわからない事の方が多いんだけどねえ。
そういう世相を見ていると、こういうのも無いといけないと思ってしまう。個人的好みから言えば、もう少し穏やかにやってもらいたいのだが、それだと既にわかっている人間にしか結局通じないようだからな。荒療治になってしまうのも仕方がない。
まあ、このアニメの場合、大切な芯が何時の間にやら折れてしまっていた気配があるので、こっち方面でもあまり期待は出来そうにない。つーか、終始一貫させないと意味が無い事だから、これから元の乗りに戻してもどうにもならないのだ。覆水盆に帰らず、という所だ。