意図的なのかもしれないが、問題点がごっちゃにされている。沙夜子と朝美が親子でいる事と、二人が鳴滝荘で暮らすことはイコールではあるまい。普通に考えれば、朝美も家族として認めてもらって、水無月家に住むのが理想だ。「娘(沙夜子)の養女だから孫として扱う」というのは欺瞞だという意見もありそうだが、別に沙夜子だって朝美の親になるために黒崎と結婚したのではあるまい。黒崎と結婚した結果、朝美の親になったんだ。だったら、水無月夫妻も沙夜子を愛する延長として朝美を愛しても不自然ではない。だからこの場合、問題の本質はそれが出来ない/しようとしない丑三の頑迷にあり、沙夜子たちがしなければならないのはそれを解きほぐすことだ。
逆に、もし鳴滝荘に帰るというのを話の本質にするなら、水無月家は徹底的に居心地が良くて、丑三も夕も自分の孫として受け入れてくる、そういう風に描くべきだ。
そもそも一時避難所であるはずの鳴滝荘が、同時に理想郷として描かれるのが問題だ。「色々と問題を抱えている連中を受け入れるための場所」ならば、住人たちは問題を解決して出て行くべきで、今回、沙夜子と朝美が戻ってきてしまったのは間違いだ。もし、理想郷であるならば、そこの住人は他でもやっていける人間であるべきで、朝美はともかく沙夜子は適さない。そもそも、沙夜子に朝美の親をやっている資格があるとは思えない。
これも混同されているが、朝美が沙夜子と親子でいたいという気持ちを持っている事と、実際に親子でいることが幸せであるかという事は別のことだ。
現実世界の話だが、子供というのは基本的に親を否定できないんだ。それは自分を否定することに繋がるから。だから、子供が親を非難しなかったり、親と一緒にいる事を拒絶しなかったからといって、親子関係が上手くいっていると考えるのは早計だ。子供を守るために、子供本人の意思に反して親から引き離さなければならないことはある。
この話の場合、「朝美が沙夜子の娘でいいのか」以前に「沙夜子が朝美の母親でいいのか」が問題となる。実質、娘に養ってもらっている沙夜子に親を名乗る資格があるのかはなはだ疑問だ。
まあ、それ以前に養女がいるにも関わらず、駆け落ちなんかした黒崎氏に問題がある。恋愛沙汰なんかは、当人たちの気持ちが一番大事かもしれないが、それが全てに通用するわけではない。親としての責任は、人間としてもっとも優先されなければならないことであり、また気持ちがあればいいというものではない。