前回から今回にかけ、アラストールがシャナやヴィルヘルミナに対して至極真っ当に大人として教え諭している。(特にここ最近)ヘッポコ振りをさらしまくっていたが、やる時はやるんだな。見直したぞお父さん。
もっとも、ここでアラストールが物凄く大人に見えるのは、ヴィルヘルミナが大人になりきっていない証拠と言えるかもしれない。ヴィルヘルミナも少なく見積もって数百年は生きているはずだが、その割には思考が子供っぽい。精神的な年齢は人生経験によって決まるもので、経てきた時間に単純に比例するものではないということか。親になった時から大人としての人生が始まる、なんて言葉からすれば、母親としての自覚(=覚悟)が無いヴィルヘルミナは、まだまだ大人としては未熟と言えそうだ。
あるいは姿形が精神に及ぼす影響は思いのほか強く、姿が若いままだと精神も老成しにくい、と言う事だろうか。敵である徒も概ね外見どおりの性格だしな――まあ、こちらはむしろ内面に合わせて外見が決まっていると考える方が自然だが――。討滅する側の紅世の王が人の姿を取らない事にどういう理由があるのかはわからないが、アラストールだけでなくあのマルコシアスも自分のフレイムヘイズに対して大人として接しているのを見ると、結果としてその事がプラスに働いているようである。
ちなみに、その線で見てしまうとティアマトーが本当に使えない奴になってしまうのだが、これはまあ仕方がない。契約相手の精神的ケアぐらい責任を持ってやってもらいたいのは確かだからな。無口にも程がある、という事で。
話は変わるが、一美たちがシャナに「フレイムへイズではなく、クラスメイトとしてのお前に対して悠二のことを頼む」と言う展開はそれ自体は悪くないのだが、そこでみんなして「平井ゆかりとしての」と言うのは如何なものか。そんなこと言われると、本当のことが言いにくくなるじゃないか。なにしろ肝心の悠二が、あくまで本物のゆかりの事を忘れようとしないからな。このまま平井ゆかりで押し通すのには少なからず支障がある。